てらどまりごしょ かな&漢字  御書951ページ2行目から952ページ9行目

◆てらどまり ごしょ (寺泊御書)
だいびゃくれんげ 2011年11月号 勝利の経典 ごしょに学ぶ
○つうかい □ひらがな訳 ●漢字本文
 御書951ページ2行目から952ページ9行目までですが、中略で途中がぬけているところがあります。

  (御書951ページ2行目から4行目)

○さがみのくに あいこうぐん えちのごうを たって むさしのくに くめがわの しゅくばに つき 12日を へて えちごの くに てらどまりの みなとに ついた。これから たいかいを わたって さどの くにに いたろうと しているが じゅんぷうが さだまらず わたる ときが わからない。ここまでの みちの あいだの ことは そうぞうも およぶことなく また ふでにも およばない もので あった。ただ あんに おしはかって ください。また くなんは もとより ぞんちの ことなので いま はじめて なげくはずの ことでは ないから やめておく。


□こんげつ ジュウがつなり トオカ そうしゅう あいこうぐん えちの ごうを 
たって むさしのくに くめがわの しゅくに つき ジュウニにちを へて えちごのくに てらどまりの つに つきぬ これより たいかいを わたって さどの くにに いたらんと ほっするに じゅんぷう さだまらず そのごを しらず みちの 
あいだの こと こころも およぶ ことなく また ふでにも およばず ただ 
あんに おしはかるべし また もとより ぞんじの うえなれば はじめて 
なげくべきに あらざれば これを とどむ 


●今月十月なり十日相州愛京郡依智の郷を起つて武蔵の国久目河の宿に付き十二日を経て越後の国寺泊の津に付きぬ、此れより大海を亘つて佐渡の国に至らんと欲するに順風定まらず其の期を知らず、道の間の事心も及ぶこと莫く又筆にも及ばず但暗に推し度る可し、又本より存知の上なれば始めて歎く可きに非ざれば之を止む。


(御書951ページ5行目から952ページ9行目)

○ほけきょうの 第4巻には しかも この ほけきょうを とくときは しゃくそんの ざいせでさえ なお おんしつ はんぱつが おおい。ましてや しゃくそんの にゅうめつした のちに おいては なおさらである。ほっしほん 第10 第5巻には いっさいの せけんの なかで あだ かたきが おおく しんじがたい。あんらくぎょうほん 第14 ねはんきょうの 38には そのときに おおくの げどうが あじゃせおうの まえで みな こう いった。「だいおうよ いま よのなかに ひとりの だいあくにんが いる。くどんしゃもん、 しゃくそんが それである。よのなかの あらゆる あくにんは りようの ために かれの ところに あつまり その いちみとなり ぜんを じっせんする ことは ない。また かれは じゅじゅつの ちからに よって かしょうや しゃりほつ もくれんなどを ふくじゅうさせて しまった。」とある。(中略)
かれらが いう ひとりの だいあくにんとは にちれんに あたっている。あらゆる あくにんが かれの ところに あつまるとは にちれんの でしたちの ことで ある。かの げどうは かこの ほとけの おしえを あやまり かえって いまの ほとけ しゃくそんを あだと したので ある。いまの しょしゅうの がくしゃたちも また おなじである。けっきょくの ところは ぶっきょうに よって じゃけんを おこしたので ある。めが まわっている ひとには おおきな やまが うごいているように みえるのである。


□ほけきょうの だいヨンにいわく 「しかも この きょうは にょらいの 
げんざいにすら なお おんしつ おおし いわんや めつどの のちおや」 だいゴの まきに いわく 「いっさい せけん あだ おおくして しんじがたし 」 
ねはんきょうの サンジュウハチにいわく 「そのときに いっさいの げどうの 
しゅ ことごとく この ことばを なさく ちゅうりゃく だいおう いまは 
ただひとりの だいあくにんあり くどんさもんなり ちゅうりゃく 
いっさいの せけんの あくにん りようの ための ゆえに その もとに ゆき 
あつまり しかも けんぞくとなって ぜんを 
しゅすること あたわず じゅじゅつりきの ゆえに かしょう および しゃりほつ もっけんれんらを ちょうぶくす」 うんぬんちゅうりゃく かれらが いう いちだい あくにんとは にちれんに あたれり いっさいの あくにん これに あつまるとは にちれんが でしとう これなり かの げどうは せんぶつの せっきょう 
るでんの のち これを あやまって ごぶつを あだと なせり いま しょしゅうの がくしゃらも またまた かくの ごとし しょせん ぶっきょうに よって 
じゃけんを おこす めの てんずるもの だいせん てんずと おもう 

●法華経の第四に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し況んや滅度の後をや」第五の巻に云く「一切世間怨多くして信じ難し」、涅槃経の三十八に云く「爾の時に一切の外道の衆咸く是の言を作さく○大王今は唯・一の大悪人有り瞿曇沙門なり○一切の世間の悪人利養の為の故に其の所に往き集り而も眷属と為つて善を修すること能わず呪術力の故に迦葉及び舎利弗・目〓連等を調伏す」云云、
(此の涅槃経の文は一切の外道我が本師たる二天三仙の所説の経典を仏陀に毀られて出す所の悪言なり、法華経の文は仏を怨と為す経文には非ず、天台の意に云く「一切の声聞・縁覚並に近成を楽う菩薩」等云云、聞かんと欲せず信ぜんと欲せず其の機に当らざるは言を出して謗ること莫きも皆怨嫉の者と定め了んぬ、在世を以て滅後を推すに一切諸宗の学者等は皆外道の如し、)
彼等が云う一大悪人とは日蓮に当れり、一切の悪人之に集まるとは日蓮が弟子等是なり、彼の外道は先仏の説教流伝の後・之を謬つて後仏を怨と為せり、今諸宗の学者等も亦復是くの如し、所詮仏教に依つて邪見を起す目の転ずる者大山転ずと欲う、


 (御書953ページ13行目から14行目)

○べんかは あしを きられ きよまろは きたなまろと いう なを つけられた うえ しざいに されようと した。とうじの ひとびとは これを わらったが しかし わらった ひとびとは そのなを こうせいまで のこして いない。あなたたちの よこしまな ひなんも また おなじで あろう。


□べんかは あしを きられ きよまろは けがれまろという なを たもうて 
しざいに およばんと ほっす ときの ひと これを わらう しかりと いえども そのひと いまだ よき なを ながさず なんだちが じゃなんも また しかるべし

●卞和は足を切られ清丸は穢丸と云う名を給うて死罪に及ばんと欲す・時の人之を咲う、然りと雖も其の人未だ善き名を流さず汝等が邪難も亦爾る可し。


(御書953ページ15行目から954ページ2行目まで)

○かんじほん 第13には ぶっきょうを しらない おおくの ひとびとが わたくしたちを ひなんし ののしると ある。にちれんは この きょうもんに あたっている。あなたたちは どうして この きょうもんに はいらないのか。かたなや ぼうで うつものが いると ある。にちれんは この きょうもんを みで よんだ。あなたたちは どうして この きょうもんを よまないのか。つねに たいしゅうの なかに いて わたくしたちの かしつを あげつらおうと すると ある。こくおう だいじん ばらもん しゃかいの ゆうりょくしゃに むかってと ある。あっこうし かおを しかめ しばしば ところを おわれようとする と。しばしばとは たびたびで ある。にちれんは ところを おわれること いくども。るざいは 2度で ある。ほけきょうは さんぜの せっぽうの ぎしきで ある。かこの ふきょうほんは いまの かんじほんで あり いまの かんじほんは かこの ふきょうほんで ある。いまの かんじほんは みらいの ふきょうほんと なるで あろう。そのときは にちれんは すなわち ふきょうぼさつと なるで あろう。


□かんじほんに いわく 「もろもろの むちの ひと あって あっくめりし」 とう うんぬん にちれん この きょうもんに あたれり なんだち なんぞ この 
きょうもんに いらざる 「および とうじょうを くわうるもの」 とう うんぬん にちれんは この きょうもんを よめり なんだち なんぞ この きょうもんを よまざる 「つねに だいしゅの なかに あって われらが とがを そしらんと 
ほっす」 とう うんぬん 「こくおう だいじん ばらもんこじに むかって」 とう うんぬん 「あっくして ひんじゅくし しばしば ひんずい せられん」 
しばしばとは たびたびなり にちれん ひんずい しゅうど るざいは ニどなり 
ほけきょうは さんぜの せっぽうの ぎしきなり かこの ふきょうほんは いまの かんじほん いまの かんじほんは かこの ふきょうほんなり いまの かんじほんは みらいは ふきょうほんたるべし そのときは にちれんは すなわち 
ふきょうぼさつたるべし 

●勧持品に云く「諸の無智の人有つて悪口罵詈し」等云云日蓮此の経文に当れり汝等何ぞ此の経文に入らざる、「及び刀杖を加うる者」等云云、日蓮は此の経文を読めり汝等何ぞ此の経文を読まざる「常に大衆の中に在つて我等が過を毀らんと欲す」等云云、「国王大臣婆羅門居士に向つて」等云云、「悪口して顰蹙し数数擯出せられん」数数とは度度なり日蓮擯出衆度流罪は二度なり、法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品
     ―
今の勧持品は過去の不軽品なり、今の勧持品は未来は不軽品為る可し、其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為る可し、

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